第42話   座敷竿                   平成27年09月20日 

かつての庄内には、聞きなれぬ言葉だが座敷竿と呼ばれる釣竿があった。
 普通の竿とどう違うのかと聞かれると、実は何も異なる点はない。唯の普通の竿で、強いて云えば他人に自慢出来る位の竿なのである。座敷竿と云うくらいなので、家の中で振り回せる多少短い竿としか云いようがない。自分で眺めたり、竿を振って見たりして、自分自身がそれで興に入れればそれで良い。要するに自己満足するだけの竿なのである。よってその竿は、美竿以上の名竿でなければならない。
 庄内竿には、一間に満たぬクロコ(メジナの幼魚)を釣るクロコ竿、篠子鯛(黒鯛の幼魚)を釣る篠子鯛竿からそれより多少長いタナゴ竿、テンコ(メバル)竿、それに長さが67mを超えるような黒鯛、真鯛、スズキを釣る為の様々な釣竿がある。
 釣りのシーズンが終わって、竿の手入れをしながら家の座敷等で歴戦の愛竿を振って見て、かつての釣の様子を頭に浮かべ、その時の感触を確かめる。漆を塗ったような真茶色の竹竿を眺め、しっくりと掌に馴染む根の感触やらを一人じっくりと楽しむ。いや一人でだけではなく、釣友と一献傾けながら魚が釣れた時の話に花を咲かしながらの事もあるのである。
 また、鶴岡にはこんな話もある。釣はあまりやらないが、名人の作る釣竿を収集するお金持ちの好事家が少なからずいた。この人たちは、名竿を求める為に、お金には糸目を付けず収集したと云う。其の人たちは明治、大正、昭和初期の頃の名人と呼ばれた貧乏竿師達のスポンサー見たいな役目を果たした人たちである。この収集家達は収集した釣竿を座敷に幾本も並べては、手に取ってじっくりと眺めたり、釣竿を振って見たり、竿の感触だけを楽しむのだ。お金持ちだから、結構大きな家である。単にそれだけの事なのだが、それだけで十分自己満足していたのである。あたかも武士が、刀剣をじっくりと眺めて鑑定する心境と同じ事なのであったのかも知れない。幕末の頃、釣は武士の物であった事から、刀剣を眺める習慣が鶴岡に根付いていたからかも知れぬのである。
 ここで思い出い出すのは、秋保政衛門親友(供頭を経て江戸に出て軍学を学び軍学師範、その後郡代、海防御用掛、用人を経小姓頭)が「名竿は名刀よりも得難し、子孫はこれを粗末に取り扱うべからず」と野合日記の中に書き著した逸文である。この人物幕末頃の庄内藩の400石取りの高級武士で、藩校致道館で藩士の子息達を教育する立場にあった人物である。この人の時代の釣り人の中には、真剣に武士の魂と云われた刀剣と、たかが釣竿ではあったが、釣竿を剣と同じ目線で考えて居た人たちがいた事は実に面白いと云わざるを得ない。
 庄内竿には、例外はあるものの釣竿に作者を刻むと云う習慣が少なかった。それは釣竿に出来るだけ傷を付けたくないと云う気持ちからである。その為、竿の良し悪しだけではなく、釣竿の削り方、矯め方や作者の癖などを見て、刀剣の鑑定と同じように作者を当てる人たちが少なからずいたものである。現在残念ながら、そんな人はまったくいなくなってしまった。